ネガティブ駅始発電車いまだ発車せず

 お金沢山ためて、派手な披露宴をしたんだ。式もスライドショーも演出もめちゃくちゃ凝って。こんな素敵で面白い披露宴初めてって友達に言われるぐらい。イベントとしては大成功した。イベントとして。

 

 

 彼の事は勿論好きだった、でも、結婚というものにもっと慎重に向き合うべきだった。お金が貯まったら結婚しようと話して数年。その数年で予算が貯まったその時、何か、湧き上がる感情よりも「そういう話だったよね?」という、約束は守る、という義務感が先に立ってしまっていた。でもその微かにザラリとした感覚に気付かないふりして、結婚した。ふりをしたのは、私だ。だって、幸せになりたかったから。良かったねって皆から祝福されたかった。世間的な結婚適齢期という、見えない縛りで焦りを勝手に感じすぎてしまったのもある。

 

 

 実家では当時妹も弟も学校に行けてなかったりうまくいってなかったりで、実家の空気はどんよりしていた。せめて長女の私は両親にグッドニュースを持っていきたかった。下の2人でいっぱいになり、親戚にも肩身が狭い心境でいた親に迷惑を掛けたくなくて、学費の安い夜間大学を選んで、留学費用もバイトで貯めて。自立した方が金銭的に迷惑がかからないだろう、と家を出た私。数年後、私にも貰い手がいたよ、と結婚して喜ばせたかった(私的には凱旋帰国みたいなイメージだった)

 

 

 けど、最悪の形で裏切ってしまった。豪華な披露宴から2年足らず。職場に苗字が変わる報告をこのショートスパンで2回。当時の生徒さんにはもう伝えなかった。女性ってなんで苗字変えないといけないんだろな。しんどいのにたくさんの手続きで傷口を否応にも抉られる。治りかけた傷にまた気軽に触られたり。紙を1枚出せば終わりでは無いのだ。

 

 

 義母との同居やそれに起因する子作り問題、出張で不在がちな彼の仕事、諸々の事がついに私のキャパシティを超えてしまったのだ。共同生活の中で、家族として受け止めきれない価値観の乖離を痛感したのと、これから一生寄り添っていかなければならない未来に目の前が暗くなったし、彼は最終的に私の味方ではなかった。そりゃあそうだろう、分かっていなかったのは私だった。

 

 

 家庭に入って欲しい願いとは裏腹に仕事を辞めようとしない私に向けられる、彼からの日々の嫌味も、ジワジワと私を蝕んでいった。愛してるよと沢山言ってくれた人だけど、同じぐらいの量、私が息苦しくなる言葉も口にした人だった。

 

 

 当時、私はその彼の言葉の圧力を上手く説明できなくて、私の意志で、我儘で別れたような形になっていたけれど。後にこれだ!と思う単語が出現していたのだ。

 

モラハラ

 

 当時からこの単語が流通していれば、どういう感じで嫌な気持ちになったのか、なぜ一緒に居られなくなったのか、より説明できたかもしれない。でもなかったから仕方ない。彼をそう駆り立てた自分にも責任がある。私の我儘で全てが崩れた形になった。

 

 

 大抵の感情を抑え込んできた私に、人生で最初に自分の心から湧き上がった、私はこうしたいんだ!という感情は、「もうここにはいられない」という負の意志であり、親にかけた最初で最大の迷惑と我儘が、この離婚だった。

 

 

 周りを見ながら自分の感情に蓋をして、自分はこうするべき、こうあるべき、そればかりに目を向けて生きてきた最大のツケが押し寄せたのだ。誰しもそんな綺麗に生きられるわけじゃないのに。

小傷を避けてきた私の人生に、真正面からでっかい✖️が刻まれた。

 

 

 当たり障りなく生きるのって無理なんだなって、そんな当たり前の事を大人になるまで学ばなかった私。史上最大に親族にも友達にも職場にも大迷惑をかけた。この幸せにしたかった両親に迷惑をかけたと言う事実が、妹よりも弟よりも表向き順調に育っていたはずの私がそれをしでかしてしまったという罪悪感の波が、10年位、何度もフラッシュバックして、突然涙が止まらなくなったり、前の家族の夢を見たり、心の凝りとしてずっと残っていた。

 

(本当にずっと暗い...ごめんなさいwもうすぐ夜明けかも)